真像寺について

由緒

【しんぞうじ】と読みます
全国に七万七千ある寺院の中で
【真像寺】と同じ漢字の寺院は唯一です。
何故、当山が真像寺と名付けられたのか
当山の由緒からご説明します。

真仏上人

当山の開基は真壁の真仏上人(しんぶつしょうにん)で、この地に草庵を結んだことに始まります。浄土真宗を開いた親鸞聖人(しんらんしょうにん)の直弟子の中でも後に専修寺第二世を任されるほどの高弟であった真仏上人は、元々は現在の真壁町椎尾地区の城主の長男で、椎尾弥三郎春時と名乗りました。父の死後、17歳で家督を継いだ春時でしたが、親鸞聖人の教えを受けるため翌年に舎弟の真壁四郎国綱に譲り、嘉禄元年(1225年)11月4日に親鸞聖人の弟子となりました。
真仏上人が生まれた年は承元3年(1209年)、真像寺の元となった草庵が建てられた年は安貞元年(1227年)。まだ親鸞聖人から教えを受け始めたばかりの頃に始まりました。

聖人の帰洛

真のすがた

やがて真仏上人は専修寺第二世として親鸞聖人の教えを広く伝えるために草庵を法弟であった願入に任せました。
その後、20年あまり関東で教えを広められた親鸞聖人は、62〜63歳頃に家族を連れて京都に帰ることになりました。
関東に残る弟子や同行にとってどれだけ寂しかった事でしょう。
その1つでもあったこの草庵の同行たちに、高田山専修寺にて親鸞聖人より自画像とされる木像が記念に贈られました。
以後、この草庵は親鸞聖人の真の像(すがた)を写す寺として【真像寺】と呼ばれるようになりました。

中興碑

当山には古くから伝わる書物等はほとんどありませんが、境内には明治29年に建てられた中興碑があり、住職不在の慶応3年に本山にお願いをして得乗師を招いたとあります。師は福島県南会津にある南泉寺18世の三男で、東京浅草の稱念寺にて学んだ後、栃木県栃木市岩舟町にある淨琳寺に17年間いたと記されています。師は真像寺第二十四世として寺を興隆し、明治14年に弟子の得愿に職を譲った後、明治29年現在も健康と記されています。現在の本堂の建立が明治22年、得乗師のお陰で檀信徒様の法要が今も続けられています。
ちなみに、真像寺・南泉寺・浄琳寺に共通しているのは得乗師以外にも山門が鐘楼門であり、建てられた時期も近いそうです。

本山専修寺
本寺専修寺

本寺専修寺(ほんじせんじゅじ)
栃木県真岡市にある本寺専修寺は真宗高田派の元々の本山であり、親鸞聖人の宗教遺跡として境内は国の史跡に指定されています。毎年8月1日、2日に行われる「高田まち」は県内外から多くの参拝があります。

国重文 御影堂(みえいどう)
親鸞聖人の等身の御影を中央須弥壇上に安置し、左右に真仏・顕智両上人の木像をはじめ、歴代上人像をおまつりするお堂です。
寛保三年(1743)頃の建築になります。

県重文 国重文 如来堂(にょらいどう)
親鸞聖人が長野の善光寺よりお迎えした一光三尊仏は秘仏として如来堂奥に安置され、17年目毎に開帳され、次回は2030年頃になります。普段は御前立(おまえだち)本尊を参拝することができます。

県重文 釈迦涅槃像(しゃかねはんぞう)
涅槃堂の中に安置される釈迦涅槃像は元禄15年頃に制作されたもので、木像3mに及ぶ大涅槃像は日本一とも言われる大作です。

国史跡 御廟(ごびょう)
京都で親鸞聖人のご葬儀を執り行った第三世の顕智上人が、ご遺骨を持ち帰って作った御廟。鎌倉時代の古い様式を示しています。向かって左側 には2代〜9代 お歴代上人の墓碑が並んでいます。

本山専修寺(ほんざんせんじゅじ)
三重県津市にある高田山専修寺は真宗高田派の本山で、第10世の真慧上人(しんねしょうにん)の頃に栃木の本寺が兵火によって炎上したりしたため、歴代上人がこちらに居住するようになって、こちらが本山として定着しました。

国宝 御影堂(みえいどう)
寛文6年(1666)の建築で、御開山 親鸞聖人の木像を安置する780畳敷という全国屈指の大御堂です。

国宝 如来堂(にょらいどう)
寛延元年(1748)の建築で、「証拠の如来」と呼ばれる阿弥陀如来の木像が安置されています。

境内には6月中旬から8月中旬にかけて見頃を迎え、極楽浄土に咲くといわれる蓮の花が35品種1000株を鉢で栽培されています。

新宝物館 燈炬殿(とうこでん)
開山親鸞聖人誕生850年、立教開宗800年、中興真慧上人500年忌、聖徳太子1400年忌の法讃法会記念事業として新宝物館がオープンしました。